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銀ぶらの語源

 パウリスタでの話の続きです。会計の際、ポイントサービスのスタンプカードに、「銀ブラ証明書」という文字がありました。
 「あなたは本日、銀ブラ(銀座通りを歩いてカフェーパウリスタにブラジルコーヒーを飲みにいくこと)を楽しんだことを証明します。」

 どこかで聞いたことのある言葉だと思ったら、塩沢槙さん著『東京ノスタルジック喫茶店』にも、浅草の喫茶店「銀座ブラジル」の紹介で、銀ブラという言葉は、銀座でブラジルコーヒーを飲むことからきているという説もあると書かれてあったのを思い出しました。
 前回に引き続き平野威馬雄さんの本から引用させていただくと、「銀ぶらの語源」については、以下の内容でした。
 「銀ぶらということばは、よほど古くからあったらしく、明治の末ごろ、さき頃まで文春クラブの支配人だった当時の新進洋画家松山省三さんの経営していたカフェ・プランタンの常連だった文化人たちによって使われ出したと見るむきが多い。
 毎日ブラブラしているプランタンの連中を銀座ブラと呼び、これがちぢまって銀ブラということばが生まれた・・・と松山さんは云っている。すると銀座のブラはプランタンに集まって何という事もなくぶらぶらしていた連中、つまり、ブラ族をさしているわけで、なにもわざわざ銀座をブラつくという行動をしなくても、すでにあの辺のカフェーでぶらぶらしている人の姿から生まれたと考えた方がいいかもしれない。が、その後、慶応の生徒たちが銀座をぶらつくことに解釈するようになり、今日に至っている・・・。(平野威馬雄 著『銀座物語-街角のうた-』日本コンサルタント・グループ、1983年より引用)
 しかし、この本では狭義での「銀ブラ」は、以下のような意味だったと書かれています。 
ところが、白牡丹の松田信四郎さんに云わせると、とんでもないことになる。
「だいたいぶらつき歩くというのに、わざわざ晴れ着をきたり、りゅうっとした背広姿で、大邸宅のじゅうたんをしきつめた立派な廊下を歩くように、気取ったステップをふんだりするなんてえのは、ぶらつきなどとは凡そ縁遠いことです。(中略)
私の知っている限りにおいて、ほんとうの銀ブラというのは、関東大震災以後あまり見られなくなったようです。(中略)
昔は店の主人も奥さんも老人も子供たちもお店の番頭さんも小僧さんも、店がしまると一風呂あびて、ゆかたがけで、夜店をひやかしたり、橋のたもとの氷屋でぶっかきをたのしんだものです。それがほんとうの銀ブラだったのです。(平野威馬雄 著『銀座物語-街角のうた-』日本コンサルタント・グループ、1983年より引用)。
 つまり銀座に店舗を構える店の関係者が、仕事あけに銀座の町をぶらつくことを、狭い意味での「銀ブラ」と呼んでいたそうです。当時は店の経営者とその家族をはじめ、使用人もみな、住み込みで銀座に住んでいたのが、震災後は郊外に引っ越してしまい、住み込みの使用人たちも通いになったため、そのような習慣も消えてしまったそうです。
 筆者は、この定義を「生粋の銀ブラ」と呼んでいて、さらにショッピング目的でぶらつくのも、銀ブラではないようだ、と綴っています。フトコロは小銭程度で漫然と町全体のふんいきに酔って歩く・・・というのが、銀ブラではないだろうか、とのことでした。

 さて、ほんとうの銀ブラ、自分にはできるでしょうか。カネ稼ぎと時間に追われ、あくせくすることに慣れきっていて、突然ゆったりしようしても、できるものではありません。スローペースになれるのは身体を壊して風邪を引いた時くらいのものでして、身体を休みやすみ使わなければ動けない事態になってはじめて、自然とゆったりできるのかもしれない。え、それじゃゆったりじゃなくて、ぐったりだろうって? 「いやし」も「ゆとり」もまだまだ縁遠いこの頃です。
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by matsutakekissa | 2010-12-08 12:36 | エトセトラ | Trackback | Comments(0)  

カフェー・パウリスタのこと

 ブログからはこのところ、遠ざかっていました。ひさしぶりに書きましたが、まだるっこしい表現だらけです。
 半年以上前からあたためていたこの記事も、ずっと寝かせたままでしたが、あんまり時間が経ってしまうと、気持ちは冷めてしまいますね。

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 銀座8丁目のカフェーパウリスタ。コーヒーの味を一般大衆に広めた明治創業の老舗喫茶店で、一度は行っておきたいと思っていたものの、店がまえで敷居が高く感じられ、これまで入らずじまいでした。
しかし「銀座の詩情」という本を読んで、ようやく心が動きました。コーヒー豆がまだ珍しかった明治時代、パウリスタでコーヒーを飲んだ時の感動を作者は伝えています。

「それまでコーヒーといえば角砂糖の中へ豆をこがしたような粉を少しばかり入れたのをよろこんでのんでいた連中が、はじめてコーヒーらしいコーヒーにありつけたのは、パウリスタのおかげといっていいだろう。
(中略)ブラジルコーヒーのストレートを一杯五銭でたっぷりのませた。ぽってりとした分厚な白陶のカップに星と女神の正面顔がマークとしてついていた。あのマークはいまも眼底にこびりついている。(平野威馬雄「銀座の詩情1」白川書院、1975より引用)
 パウリスタが当時としては破格の値段でコーヒーを提供できたのには、ちゃんと理由があったそうです。
ブラジル移民のお礼にと、ブラジル政府からコーヒー豆が定期的に贈られ、日本各地にブラジルコーヒー宣伝販売所が開店し、極めてリーズナブルな値段で本格志向のコーヒーが提供されたということですが、先ほどの「銀座の詩情1」にも、同様の内容があったので、抜粋します。

「本場の香高いブラジルコーヒーをなぜあんなに安くのませてくれたのかというと、創設者の水野竜という人の人徳のいたすところだったのである。ブラジル邦人珈琲園開拓の大恩人としてブラジル政府からお礼のイミで年間一五○○俵の珈琲の無償提供を受け、日本でのブラジルコーヒー宣伝のためにカフェー・パウリスタをはじめたのだ。だからドーナツまで添えてただみたいな値でのませてくれることができたのだ。」
(平野威馬雄「銀座の詩情1」白川書院、1975より引用)
 銀座店が開店したのは明治44(1911)年。その後、一時中断を経て、昭和45(1970)年、店舗の営業が再開されたそうです。戦後すぐの文献では、喫茶店としてのパウリスタの文字は見当たらなかったので納得がいきました。

 朝の遅い銀座では、8時半開店のパウリスタはえらく早起きの店に見えます。ドーナツって今でもメニューにあるのかな、と期待しながらドアを開けました。
入ってすぐに解放感を感じたのは、天井が高いからだと後から気がつきました。よく見ると、席数は想像したよりも少なめで、意外とこじんまりしていました。全国紙、スポーツ紙ともに、新聞が各種揃っているのも、うれしい驚きでした。
 残念ながらメニューにドーナツはありませんが、マフィンは各種揃っています。ただ、せっかくなので、モーニングサービスを試してみることにしました。注文して間もなく、ミニサラダと、スターターのオレンジジュースが先に出されました。ジュースはフレッシュで香りがよいのがさすがだなあと思いました。
 セットのコーヒーはお替わり自由で、普段自宅で淹れるコーヒーの数倍、香り高く感じられました。自称味オンチの自分が、ふつうに飲んで美味いな、という味です。スターターのオレンジジュースも香り高く、フレッシュな味わいでした。トーストのパンは、厚切りのふわふわ。カットされたパンは皿に山盛りで、バターとジャムが添えられました。
 ゆっくり貫ぎたいところでしたが、用事を控えていたため時間に余裕がなく、滞在わずか30分たらずで、名残惜しく店をあとにしました。いつもながら、気ぜわしいなあ・・・。
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by matsutakekissa | 2010-11-26 10:30 | エトセトラ | Trackback | Comments(0)  

都バスで喫茶めぐり

 すごく今さらですが、このブログ記事のすべては、とある単行本を真似て書いています。
 単行本のタイトルは『下町酒場巡礼』*1。下町酒場好きの間では(たぶん)必ず読まれているであろう一冊です。もう10年前ですが、本を初めて手に取った時の興奮は今も忘れられません。
 3人の著者の分担執筆で東京の下町、もとい場末といわれる居酒屋をめぐり歩いて紹介した本ですが、その調査スタイルは少し独特です。彼らは自分の身分を明かして取材することなく、自分の足を使ってたどり着いた居酒屋に客として入り、常連客と店主のやり取り、店の雰囲気を臨場感あふれる文章で再現しています。著者たちの旺盛な好奇心と、常連客と店に対する遠慮感のようなきまじめな姿勢も伝わってきました。
 今でこそ、「下町酒場」という言葉も市民権を得、それに付随する類書も多く出回っていますが、この本は「下町居酒屋」に付加価値をつけ、メジャーにのし上げた火付け役のひとつ、と言ってよいかもしれません。

 前置きが長くなりすぎました。10年前とは違いインターネットの情報は格段に進化し続けています。なんでも簡単に情報が入るこの時代、ついつい楽をしがちですが、なんとか『下町酒場巡礼』のような熱心さを持って無駄足を踏み、失敗し続けたうえで、自分がよいと思った店に辿り着いてみたいなあ、と思ってはじめたのが、喫茶店めぐりなのです。
 ちなみになぜ居酒屋でなく、喫茶店なのかという最も大きな理由は、場の雰囲気をぶっ壊すからです。もちろん違和感なくとけこめるタイプのヒトもいますが、おんなは居酒屋の客というより、むしろ経営側になるなあと、いろいろと失敗して現在にいたります。

 ようやく本題です。以下は『下町酒場巡礼』のコラム[都バス・「草64」]*2を真似て書いたものです。

 普段の移動手段にバスを使うことはほとんどありません。たとえ大回りで乗り継ぎがあっても電車を使うか、次の駅まで歩くという選択肢ばかり。そもそもバスを待つという気持ちの余裕がありません。
 しかし、この前バスに乗った時、これまで点と点で記憶していた場所が、路線バスだとひとつの線で結びつくことを初めて知りました。また、バスの座席からは見る車窓は歩行者の視線よりも高く、視界がひろいこともわかりました。
 
 師走の土曜日。浅草から千束にむかってぶらぶら歩き、三ノ輪駅までやってきました。今日は数カ月ぶりの自由に使える貴重な1日。さあ、これからどこへ行こう、と考えると、早速ヤボ用を思い出してしまいました。
 今年中にある買い物をしに東急ハンズにいかなければなりません。新宿、渋谷は遠いので、池袋を目指すことにしました。さて、どうやって行こうか。手っ取り早く地下鉄日比谷線に乗り、上野乗換えでJR山手線を目指そうか。それとも、鶯谷や日暮里まで歩いてしまうか。乗換えはめんどうだし、歩くのも少し疲れそうだ。
 そこへ、目の前を都バスが通り過ぎていきました。そうだ、第三の方法があった。三ノ輪駅前停留所から出ている草63系統(浅草雷門―池袋東口)のバスに乗り込みます。
 バスはすぐに大きく左折し、明治通りを進みます。荒川区役所前停留所向かいには喫茶「サン」が営業中。その斜め向かいにはツタの葉がからんだ古い喫茶店があったはず。しかし今はすっかり更地です。
 バスはしばらく明治通りを進みます。あれ、ここに喫茶店、あったっけ。珈琲専門店の大きな看板に気をとられました。バスは宮地交差点で左折。あと数百メートル明治通りを直進すれば、新三河島駅には喫茶「ナルビ」と和風喫茶「白樺」があるのに。(*草64系統を選択すれば店の前を通ります)。道灌山の商店街、水泳の北島康介選手の実家の肉屋の前を通り、バスは西日暮里へ着きました。駅近くを通ったとき、高架下近くにあった喫茶「ヒロ」が一瞬見えました。随分昔に一度行ったきりですが、シフォンケーキのおいしい店でした。
 バスは不忍通りを進みます。山の手の内側に入ると、雰囲気もがらりと変わってきました。このあたりから乗客が増えはじめました。年末でしたが、乗客はのんびりムードで車窓からウィンドウ・ショッピングを楽しんでいます。百円ショップや衣料品店の前を通ると自然と値札と商品に目がいってしまいました。少し高いところからだと、本当になんでもよく見えます。パンツの上からスカートを履いている通行人の女性を見て、後ろの座席にいた年配の男性が連れの女性(奥さんでしょうか)に「ああいう着方をすると、スカートでもあったかいんだねぇ。うまく考えたもんだ」と妙に感心していました。
 その後団子坂を抜けたところで、喫茶「ホワイト」の前を通りました。そうか、この道もバス通りだったのか。白山上交差点から巣鴨方面へ向けて、バスは右折します。この辺りは喫茶店がたくさん。珈琲豆焙煎販売の「木村コーヒー」、屋号になっている紅茶が名物の「ケニヤン」、ネコのいるジャズ喫茶「映画館」など。裏通りの商店街には「ペガサス」とか「TANTAN」。喫茶店選びにかえって迷ってしまいます。白山通り旧道から新道への分岐点へ入る直前には、コーヒー&レストラン「フェニックス」のコークのロゴ入り看板がちらりと見えました。
 巣鴨が近くなると、歩行者の数も少しずつ増えていくようでした。そしてたくさんの人が降りていきました。みんな買出しに行くのかな。人が地蔵通り商店街の方向ばかりに集中するため、大通りのほうは人通りが少なく感じます。ライトブルーのひさしがきれいな喫茶「プール」も今日は営業していました。バスは新庚申塚、西巣鴨と抜けて、ようやく左折します。掘割から旧中山道へ板橋方面に歩けば、魅力的な商店街を抜けることができます。
 ようやく池袋に近づいてきました。後方の座席を振り返ってみると、バスの乗客もまばらになっていました。所要時間40数分、ようやく池袋東口着。

 時間はかかりましたが、目的地までの行程は意外と楽しいものでした。また、時間があれば他の路線にも乗ってみたいものです。しかし、それがかなうのはいつの日になることやら・・・。

*1:『下町酒場巡礼』(大川 渉、平岡海人、宮前 栄 著、四谷ラウンド、1998年)。その後、筑摩書房から文庫化されています。
*2:コラムでは浅草から三ノ輪、滝野川を経由して池袋に到着する都バス「草64」沿線沿いの居酒屋を紹介しています。真似してみたはいいが、ひどく稚拙な文章で、真似にもなっておりません・・・。
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by matsutakekissa | 2010-03-05 00:36 | エトセトラ | Trackback | Comments(0)  

戦後のたてものマニア

 ファンも多いことだし、いつか再発行されるのでは、とひそかに期待していた彰国社の『建築写真文庫』が、2009年末、再編集版として発売されました(『Showa Style―再編 建築写真文庫<商業施設>』、都築響一 編、彰国社、2009年)。
 四六判ながら4,5センチほどの厚みのある、ずっしりとした重さの本で、定価5,250円。昨年末から書店には並んでいたものの、懐具合が厳しくて、このたびようやく手に入れました。

 『建築写真文庫』は元々建築に携わる専門家のための資料として発行されました。その内容は商店建築、遊戯施設、ファサードの意匠、商店看板、学校などの公共施設や一般家庭、庭、池、プレファブ住宅に至るまで、ありとあらゆる人間の造り上げた建築物・造成物を撮って、撮って、撮りまくった、まるで蒐集の鬼のような写真集のように思えます。全145巻もあります。当時、建築・設計・デザイン関係者たちの間でこのシリーズがどのような評価を受けていたのか、専門外の私にはまったくわかりませんが、まだ人びとが生活だけでせいいっぱいだったはずの時代、よくもこれだけの巻が出されたものだ、と感心しました。
 本シリーズが発行されたのは1953年から70年にかけてで、特にシリーズ前半は50年以上も昔に発行されたことになりますが、ページをめくってみてあまり古びた印象は受けませんでした。当時の最先端を紹介するためにつくられた内容だからでしょうか。 
 ですから、建築やデザインの専門の方々だけではなく、当時流行の建築・デザインを知りたい人も、戦後の昭和の風景を懐かしみたい人にもおすすめしたい本です。本書はダイジェスト版とはいえ、各シリーズの古書を揃える手間ひまと金額を考えれば求めやすい価格と思います。
 
 個人的に気になるのはやはり喫茶店に関連するページですが、刊行当時m[洋風喫茶店]、[和風喫茶店]の2つのシリーズに分けられ、前者は6巻、後者は4巻出版されました。洒落たデザインや1棟建の豪華なビルのつくり、客席が満席になった賑やかな光景を想像して圧倒されます。設計・デザインを見せる写真集のため店員も客も写っておらず、建物の外観と内装写真ばかりですが…。たまに写っている人物は看板娘らしき店員でポーズをとっています。もしこんな女性が入口にいたら、思わず入店したくなりそうです。飲食店などの店内は時代を感じさせるレイアウトや小道具もある一方、今とさほど変わらない内装も見られ驚かされました。
 再編さんは編集者・写真家の都築響一氏によってなされました。知っている範囲で氏について説明すると、今ではすっかりいちジャンルとして定着した「珍名所・珍スポット巡り」の草分け的存在で、日本全国の珍名所を集めた写真集『珍日本紀行』(東日本編・西日本編、ちくま文庫より発行)は今は閉鎖された施設が多数あること、独断、偏見、愛に満ちた解説にはファンが多くいます。現在では旅を海外までに拡げ、珍スポット巡りをライフワークにしているそうです。

※文面に誤りや思い違いが多かったため、一部を改めました(2017年4月)。
  
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by matsutakekissa | 2010-02-15 23:14 | エトセトラ | Trackback | Comments(0)  

松坂屋 上野店 南館7F ファミリーレストラン

 デパートの思い出といえば、セールの買出し。量販店よりデパートの服の方が質がよく、結果的に長持ちするのだと言うデパート信者の母に連れられ、夏もの・冬ものセールには必ず行きました。しかし、当時の子ども服はどこか野暮ったく、もっと安くてお洒落な服を手軽に買ってもらえる同級生がうらやましくて、コンプレックスでした。
 唯一のお楽しみと言えば、地下食料品コーナーで量り売りのお菓子を買ってもらったり、ファミリーレストランでお子様ランチを食べること。といっても、ごくたまにでした。
 最近になって都内デパートの大衆的ファミリーレストランを探してみましたが、思い当たるのは上野・松坂屋くらいでした。デパートのレストラン街は最近はチェーン展開している飲食店の出店が多く、和洋中が選べる大食堂スタイルは廃れてしまっています。

 レストランは和食のお好み食堂と和洋中のファミリーレストランに入口が分かれていますが、厨房は1ヵ所でした。セール中だったこともあり、幅広い客層で思った以上に混んでいました。
 赤いビニールシートのパイプイスや、同色のソファ、手荷物を入れられるスペースのあるテーブルはそれほど古いという感覚はしませんが、他のデパートの屋上やレストラン街がどんどん改装されている状況からすると、都内のデパートとしては、このような形式の店はやや珍しいと思われます。チケット半券をちぎる方式だったらよかったですが、さすがにこのご時勢、POSが導入されていました。ホールのスタッフはやや年配のベテランの方が多く、動作がきびきびとしているので、あまり待たされることはありませんでした。
 昼どきは混むので無理そうですが、午後のティータイム時は、ドリンクのみの利用でも全く問題はありません。コーヒーにはロータスのカラメルビスケット付で、日本茶サービスもあります。

コーヒー 380円
台東区上野1丁目
朝10時~夜7時OS
※月1回の棚卸日は18時閉店

※上野松坂屋南館は2014年3月に全館閉館し、取り壊し作業を行っています。松坂屋ではなく、別の商業ビルが建つ模様です。ファミリーレストラン、お好み食堂という名前のレストランは無くなりましたが、本館には「カトレア」というレストランがオープンしました【2014.4】
 
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by matsutakekissa | 2010-02-01 12:56 | エトセトラ | Trackback  

プライド

 先日、酉の市に行ってきました。ここ4年は身近な人のご不幸に重なっているため、日々の生活はもちろん、祭りなんぞ本来は控えるべきなのですが、楽しみにしている行事なので、少しだけはその空気を感じに訪れています。

 祭りといえば、屋台めぐりが楽しみのひとつですが、この1年、都内の大きな催し物で時々見かけていた、気になる出店がありました。「インディアンソーセージ」という暖簾が張られた屋台の下では、コックスーツに身を包んだおじさんが、自信ありげに鉄板でソーセージをひたすら焼いていて、他の屋台とは一線を画した雰囲気です。
 1本(400円)購入すると、味付けされた骨付きフランクで、特にどうということはありませんが、あのおじさんの姿があまりに堂々としていて、とても印象に残っています。

 そのおじさんを見ていて思い出した店があります。きちんとした店なので、本当は比較するのも失礼なのですが。
 千束3丁目にある「せんわ通り」商店街。酉の市では屋台が並び賑わうこの通りも、普段の平日は人通りすくなく、ひっそりとしています。「名物カツ専門店」という看板が掲げられた「日の出」は、周囲の店が閉まった後でもまだ明かりがついていました。
 カツ専門店というよりは食堂のような外観で、ショーケースにはオムライスやエビフライ、コーヒーカップの見本があります。入ってみると、10人も入れば満席の小さなお店でした。
 店を切り盛りするのはおばさん1人。メニューにはカツを筆頭に洋食メニューが並びます。各メニューにはコピーが添えられ「お子様に人気」のハンバーグライス、「本場ナポリの味」のナポリタンもおいしそうでしたが、無難にトンカツを注文しました。それと、コーヒー。
 注文するとすぐ肉を叩き始めてこしらえて下さいました。待つこと20分、出てきたのはカラリと揚がったトンカツとライス。みそ汁とおしんこ付き。
 食べてみてやっと気づいたのは、この店のトンカツは家庭の味でも食堂の味でもなく、洋食のカツの味だったということです。とてもおいしかったのですが、和定食のカツを想像していた自分にとっては意外でした。
 店を出る時、額に飾られたたくさんの手紙や写真について質問したところ、その謎が解けました。
 この店のおじいさんは、帝国ホテルのシェフをしており、村上信夫さんが後輩だったそうです。黄ばんだ欧文の手紙は帝国ホテル時代に大使館関係やシェフ仲間から貰ったもので、とても大切にしているようでした。
 「息子は皆料理人になっちゃって。だからこの店はすっかり見捨てられちゃった」、とおばさんは少し自嘲気味に語りました。この家に嫁いで50年とおっしゃるおばさんは、まだまだお元気そうにみえますが、「4年前に足を骨折して、コックスーツが着れなくなった」と、普段着の姿を少し恥じていました。
 店の雰囲気に加え、三角巾にエプロン姿からはコックスーツが全く想像できなかったのですが、名コックを輩出している家のプライドというものが感じられて、つくづく外観で店を判断してはいけないのだと思い知らされました。

※洋食「日の出」 台東区千束3丁目・せんわ商店街 夜9時頃まで営業。
 
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by matsutakekissa | 2009-11-22 23:05 | エトセトラ | Trackback | Comments(2)  

もんもんもん

 いまいちネットを信用しない自分がブログを始めてみたものの、やっぱり、ブログってのは、

 うそばっかり
 批判ばっかり
 こぎれいにまとめているふり

 という感想が拭い切れずじまいです。手前のももちろん含めて、です。
 
 けれど、生の人付き合いと同様、ブログにもやっぱり隠し切れない人となりがにじみでてしまうものらしく、こんな自分のブログでも、返ってくるさざなみは、自分の鏡のようです。まじめにやらにゃ、後々怖い。

 だから、最近は年頃の坊やか小娘か、ってほど、自意識過剰の波に巻き込まれることもあり・・・。

 え、だから何が言いたいの!はっきりしろよ!(と、もう1人が言っている)
 そして、この無駄な投稿でまたちょっと、サーバーの負担が重くなります。
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by matsutakekissa | 2009-09-19 19:00 | エトセトラ | Trackback | Comments(2)  

あのビル、あの店の思い出 3

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 2007年3月30日(金)。とうとう三信ビルの解体が間近に迫り、「ニュー・ワールド・サービス」も閉店を迎えることになりました。実は前年の3月末日で閉店したものだと思い込んでいたのですが、閉店の1ヵ月ほど前、「東京ソトアサ日記~東京で朝食を」ブログで店が現在まで平日のみの営業を続けていたことを知りました(ブログ管理者様、その節はありがとうございました)。
 うれしさと無念さは半々でした。例え営業を続けているにしろ、もう以前の、のんびりした店の雰囲気は失われているからです。閉店を知り沢山の人たちが押し寄せているらしいので、自分のような客は迷惑でしょう。1年前ですら、夕方の時間帯にはハンバーガーはもとよりごはんが売り切れてしまったりしていて、店はいつもより別れを惜しむ人たちで混み合っていました。行列ができていて、中に入れないことも考えられました。
 それでも、最後にひとめ店の姿を見てみたい。心を決めて、店を訪れました。
 最後の日、10時過ぎ。店はそこそこ人が入っていたものの、雰囲気が落ち着いていたのは、混雑する昼や夜の時間帯を避けた常連の方たちが多かったためでしょうか。常連客に、ウエイターのおばさんは「また、(閉店記事が)新聞に載っちゃってね」「並んじゃっていつものお客さんが入れない」と半ばこぼすように話していました。
 「店内や店の外、写真に撮った?」「うん。あれ(「テナントの迷惑になるので、撮影はご遠慮下さい」という管理・所有者が作成した貼紙)剥がしちゃおうかと思ったよー」「うちは全く気にしないのにね」
 混雑で店が忙しいのを遠慮してか、多くの客はなごりを惜しみながらも、そそくさと席を立っていきました。その一方、自分のような噂を聞きつけてやってきた一見客も多く、皆、一様に携帯カメラでシャッターを切る音が時折響きました。
 常連客は「長い間お疲れさまでした。ごちそうさま」「ありがとうございます」「お元気で」という言葉を残し、店を去っていきます。「今日で最後ですからね」とおばさんは笑顔で残念そうに何度も繰り返していていました。
 帰り際に2階へ上がっていくオーナーをちらりと目にしました。そして、代わりにレジに立ったのは、オーナーの娘さんらしき方でした。
 常連ではなかったし、この日はどっちかというと傍迷惑な客だったので、「ありがとうございました」とはとても言えなかったけど、心の中でありがとう、さようなら、とつぶやいて、ビルを後にしました。
(おわり)
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by matsutakekissa | 2009-09-19 18:33 | エトセトラ | Trackback | Comments(0)  

あのビル、あの店の思い出 2

 三信ビルの取り壊し計画を新聞記事で知ったのは、確か2005年のはじめでした。当時、1階のフロアにはアラブ系と韓国系の航空会社、日本郵船と、旅に関わる会社の営業所、カメラ屋、衣料品店、レストランなどのテナントが入っていましたが、取り壊し計画が出された後は次々に移転・閉店し、約1年後にはたった2、3軒のテナントを残すのみとなりました。
 普段、見向きもされなかったようなビルが、とたんに注目を浴びました。記事で紹介でもされたのか、知名度が上がり、ビルの撮影のためにカメラを携えて訪れる人々は日に日に増えていったようです。皮肉な現象ですが、これは三信ビルだけのことに限らないようで。
 できれば取り壊しが延期になればいいとは思っていましたが、反対という気持ちにはなれませんでした。一等地の古いビルなんぞ、所有者にとっては宝の持ち腐れ。維持費にかかる莫大な費用対効果を考えると、建て直しは必至だったと考えられます。
 そんな折、あるおばあさんからこのビルの思い出を聞きました。彼女にとって、人生で最も楽しかったのは、ちょうど戦前・戦中にあたる頃。空襲が激しくなり東京から横浜に疎開していた時、横浜の勤め先の会社から有楽町の三信ビル内の事務所に、時々おつかいを頼まれたそうです。
 おばあさんによると、当時のビルは百貨店だったらしいのですが、ちっとも流行ってなかったそうで、そのうち店は撤退してしまいました。当時地下にあったトンカツ屋がおいしく、贔屓にしていたそうです。思わず、「ニュー・ワールド・サービスは知っていますか?」とたずねてしまいましたたが、あの店は戦後の開店なので、ご存知ありませんでした。
(続く)
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この写真も、元・職場の先輩が撮ったもの。2階からの風景。ブルーシートの上に平積みになった宅配便の箱は、まるで波間を漂っているかのように見えました。
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by matsutakekissa | 2009-09-15 22:17 | エトセトラ | Trackback | Comments(0)  

あのビル、あの店の思い出 1

b0158023_12563168.jpg 引越し準備のため、部屋の整理をしていたら出てきた写真。撮影者は元・職場の先輩でした。写真を眺めていると、このビルに関するエピソードが思い出されました。ごくごく個人的なものですが。
 このビルの名前は、三信ビル。日比谷シャンテの向かいに建っていました。建築は昭和一ケタ代、取り壊しは2007年春でした。旧い建築に興味のある方々の間ではよく知られたビルで、取り壊しにあたっては署名運動も行われたそうです。私自身は建築には全くうといものの、使い込まれた大理石の感触と独特の装飾美が非常に好きでした。
 私がこのビルを知ったきっかけは、某ミュージシャンの映像集からでした。「あんたなら映像気に入るかもしれないから」と、友人から半ば無理やりに渡されたDVDには、今の言葉でいうところの「昭和レトロ」な映像が目につきました。月島、古い床屋、夕焼けだんだん下の商店街、有楽町の高架下。そして、ほんの一瞬でしたが、旧いビルのフロアを通り抜ける映像がとても気になってしまいました。
 その後に続く映像から想像するに、場所はおそらく有楽町近辺。そんなビル、あの場所にあっただろうか。未知への好奇心と無知に対する悔しさ半々で周辺を歩き回り、何度目かのトライでようやくその地へ辿り着いた時は嬉しかったです。
 ビルに入るなり、独特の匂いと、擦り減った石の床、そして独特の装飾が施してあるアーチが目に飛び込み、圧倒されました。陳腐な表現だけど、「時間の流れがゆるやかな空間」という言葉がぴったりです。
 1階のテナントには「ニュー・ワールド・サービス」という、変てこな名前のレストラン喫茶が入っており、店の前では店員さんが暇そうに出てきて、客足を確認して、中に戻っていくのが見えました。
 「お飲物だけでも大歓迎」そんなビラが入口に貼ってあるのを見て、かえっておじけづいてしまいました。結局、サイフに手持ちのある日に改めて来店すると、そこは、ビルへ入った時よりも、さらに時間の流れがゆったりした空間でした。
 ピアノ演奏で流れる「ほしめぐりのうた」や「うみ」などの童謡、そして、ゆっくりとした足取りで注文を取りに来る御老人のマスター。いくつか灯りの点っていないシャンデリア。スプリングがばかになって、座ったとたんに沈み込んでしまう、茶色のソファ。
 初めて訪れたにもかかわらず、すっかりリラックスしてしまいました。
 (続く)
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by matsutakekissa | 2009-09-14 12:59 | エトセトラ | Trackback | Comments(0)